川重創業者のひまご、久坂葉子の詩


読者の方から「川重創業者のひまご、久坂葉子の詩」という投稿がありましたので紹介します。



赤レンガ造りのチャペルで知られる神戸市灘区王子の神戸文学館。六甲山を背景にした文学館は、落ち着いたたたずまいで、心が安らぐ。神戸ゆかりの作家たちの原稿や本、作家のコーナーなどが設けられている。

野坂昭如、横溝正史、椎名麟三、大岡昇平、灰谷健次郎などの原稿、本を見て回っているなかで、「久坂葉子詩集」に目が止まった。広げられた詩集のページには、「こんな世界に私は住みたい」との詩があった。

 こんな世界に私は住みたい
 肩書きもいらず勲章もなく
 人はそれぞれはだかのままの心でもって
 礼節だけはわきまえて
 男も女も仕事をし
 男も女も恋をして
 ひとりひとりの幸福を
 ひとりひとりのねぎごとを
 心にそっと小さくもって
 一生かかって、みずからのためしつくす
 こんな世界に私はすみたい

緑の六甲の山に向かって、静かに朗読したくなるような詩だった。仕事をし、恋をし、礼節だけはわきまえて…そのフレーズを静かに口ずさみたくなる。働き疲れた時に、人と人の間の取り方に心労した時には、そっと声を出して。

久坂葉子(本名は川崎澄子)は、川崎重工グループの創業者、川崎正蔵のひまごである。詩や小説を書き、『ドミノのお告げ』は1950年の芥川賞候補になった。
亡くなる前に書いた、遺書ともいうべき「久坂葉子の誕生と死亡」に、創作の喜び、苦悩を書きつづっている。新聞記者からの電話にガチャリと受話器を置いた。「絵や舞踏やピアノをやっている令嬢の絵巻」というテーマで記事を書きたい、というものであった。
父親とたびたび口論した。「お前の幸福のためには結婚して、女らしい生き方をしたらよいのだ」といわれる。薬を飲んで自殺する話も出てくる。それは現実のものになった。1952年12月、21歳で鉄道自殺した。

戦争が終わり、個人の尊厳、女性の社会進出など日本が民主化されていく時代と朝鮮戦争(1950年)を契機に民主化への反動が強まった時代に久坂葉子は生き、苦悩した。
「こんな世界に私は住みたい」は、久坂葉子が願った世界である。その願いは、私たちに引き継がれているのだと思った。

(K.O記)


神戸文学館: 神戸市灘区王子町3丁目1番2号

(18.05.06)