3.戦後のドルを基軸通貨としたアメリカの世界経済支配体制の見直しへ
アメリカ発の金融危機は、新自由主義の路線やアメリカ式金融資本主義の破産を証明しただけではありません。戦後の世界経済を支配してきたドルを基軸通貨とする体制に大きな動揺を与えるものとなりました。
第2次世界大戦でヨーロッパの先進国は戦場となって経済が疲弊したのに対し、戦災も受けずひとり世界の軍需工場となったアメリカに世界の金が集まりました。そのアメリカの圧倒的な金保有高を背景に、1944年7月にニュ−ハンプシャー州のブレトンウッズに45カ国が参集して連合国通貨金融会議が開かれ、国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行を設立し、各国通貨安定のために金1オンス=35ドルと定め、アメリカがいつでもドルと金の交換に応ずると言う前提の下に、ドルを機軸通貨とする固定相場制が合意されました。ちなみに、日本円の交換レートは1ドル=360円でした。この体制は場所の名前をとって「ブレトンウッズ体制」と呼ばれています。
ところが、1950年以降、アメリカは、ベトナム戦争などによる軍事費の増大や巨額な資本輸出や対外援助などにより「ドル垂れ流し」の状態になり、経常収支と貿易収支の両方が赤字となる「双子の赤字」の状態に落ち込みました。その結果アメリカの金保有高が減り、ドルの金交換要求に耐えられなくなりました。そしてついに1971年8月にニクソン大統領が金ドル交換停止を宣言しました。いわゆる「ニクソンショック」と呼ばれる事態です。これによってドルは金の裏づけのない不換紙幣、印刷すればいくらでも発行可能な、信用のみによって流通する紙幣になってしまいました。そして1976年のIMF(国際通貨基金)総会で最終的に変動相場制が容認されました。
1980年代にアメリカは国際収支の赤字拡大で債務国に転落しました。このようなドル暴落すら危惧される事態に対処するため、1985年9月、ニューヨークのプラザホテルで先進五カ国蔵相会議(G5)が開かれました。この会議で1ドル=240円台だった円相場を、円高(=ドル安)に誘導することと、貿易黒字国の日本と西ドイツが「内需拡大」と低金利政策をとることが決められました。これを「プラザ合意」と呼んでいます。
このとき、西ドイツは自国の経済政策の手をしばる低金利政策などに抵抗しましたが、日本は抵抗することなくアメリカの要求に屈し、低金利政策を忠実に実行しました。そのねらいは、日本の金利をアメリカの金利よりも、常に低く操作することによって、日本の資金がより高い金利をもとめてアメリカに流れ、ウォール街(アメリカ金融市場)の株高をささえ、経常収支の大赤字をうめるようにすることです。垂れ流したドルをアメリカに還流するシステムを作り上げたわけです。この日本の超低金利政策は、「円キャリー」といって、金利の安い日本から資金を借りて金利の高いアメリカで投資すると言う、ギャンブルをこととした金融資産の増大にも一役買うことになりました。
こうした状況の中で、世界最大の借金国であるアメリカの1990年代の好況を支えたのは、日本や中国などが米国債を買い大量の資金がアメリカに流入したためでした。その一方で、日本の国民は低金利で利子所得を失い、1990年代には30兆円もの利子所得が奪われています。つまり、国民が額に汗して働いたお金が、アメリカに吸い上げられた結果になります。
また、「プラザ合意」でおしつけられた円高のもとで、大企業は輸出競争力を確保するために、はてしないコスト削減、リストラ・人減らしに走りましたが、これは低賃金と失業の深刻化、中小企業の倒産をもたらし、日本の“物づくり経済”に重大な打撃をあたえました。さらに、円高は、日本がアメリカにもっているドルの資産を、数十兆円という規模で帳消しにしました。
このようにして、1971年の「ニクソンショック」で基本的に破綻したドルを基軸通貨とした「ブレトンウッズ体制」を、日本などへの超低金利政策の押し付けとドルの暴落を避けつつドル安の状況を作り出す政策の強制で糊塗しつつ、世界中から資金をかき集め、その上で金融立国路線を突き進んできたアメリカで発生した今回の深刻な金融危機は、ドルを基軸通貨とする戦後のアメリカの世界経済支配体制を大きく揺るがすものとなりました。