メーデーの歴史と意義

 今年で、メーデーは82回目を迎えます。
 メーデーの発端から日本でのメーデーを振り返りその意義について考えてみたいと思います。

1.メーデーのきっかけとひろがり
 メーデーのきっかけとなったのは、1886年5月1日、アメリカ合衆国のカナダ職能労働組合連盟(後のアメリカ労働総同盟)が8時間労働制を要求して行ったストライキです。当時の労働者は、低賃金で1日12時間以上働かされるなど、過酷な生活を強いられており、これを改善するために労働者自らが立ち上がりました。3年後にパリで開かれた第2インターナショナル創立大会では、8時間労働制実現のデモを行うことが決議され、さらに5月1日を労働運動の日に設定しました。これ以降、メーデーは国際社会に広がることとなりました。

2.日本のメーデー
1)戦前のメーデー
 明治時代の「富国強兵、殖産興業」政策によって資本主義化が進められ、多数の労働者が生み出されてきました。しかし労働組合さえ存在しない中で労働者は無権利状態に置かれ、低賃金、10数時間の過酷な労働条件を強制されていました。
 1919年(大正8年)9月半ばに、川崎造船所の本社工場の労働者たちは、賃上げや賞与支給などの労働条件の改善を求めた要求を会社側に出しました。しかし、これに対して当時の社長松方幸次郎が、職工の中心的な要求に確定的な回答を与えなかったため、これを不満とした職工たちが同月18日からサボタージュ闘争をおこないました。このサボタージュ(怠業)という手段は、新聞記者・村島帰之が提唱したものです。
 争議はほぼ10日間続きましたが、松方が8時間労働制の採用と戦時の歩増分(ぶましぶん)の本給繰り入れなどを提示したため9月27日に解決しました。10月より兵庫分工場、葺合分工場、ついで本社工場において8時間労働制が実施されました。

【8時間労働発祥の地】

 神戸ハーバーランドの東川崎町1丁目には、「8時間労働発祥之地」という碑が建てられています。
 川崎争議は全国的に大きな反響を呼び、他の工場労働者が8時間労働制を要求する動きが広がり、その1年半後1921年(大正10年)の三菱・川崎大争議へと進みました。この争議は参加人員3万8千人というかつてない規模になり、戦前期最大の労働争議といわれています。
 このような状況のなか、1920年(大正9年)に印刷工組合の信友会の提唱によって、第1回メーデーが5月2日の日曜日に上野公園に1万人の労働者の参加のもと実現されたのです。そこにおいて、治安警察法17条の撤廃や失業の防止、人間らしく生きられる最低限の賃金を要求し、決議しました。
 もちろんこのメーデー自体、警察による弾圧にさらされました。そして、その後の労働運動も非常に苦しい道を歩まねばなりませんでした。しかし労働者の自らの団結を求め続けた闘いによって、日本の労働運動の歴史に巨大な1ページが開かれたのです。
 しかし、世界大戦の足音が近づく中、1936年にメーデーは禁止され、太平洋戦争が終わる1945年までメーデーが開催されることはありませんでした。
2)占領期のメーデー
 1945年8月15日の敗戦によって、日本の国民は長い間の軍国主義的支配から開放されました。日本を占領した連合国軍(実質はアメリカ軍)は、ポツダム宣言にもとづき、次のような「改革」を指示しました。すなわち軍隊などの解体、財閥解体、いわゆる農地解放、参政権付与など婦人の開放、教育の民主化などでした。同時にまた「労働諸改革」を指示しました。これらの「改革」は必ずしも徹底したものとはいえませんでしたが、それでも日本の「民主化」への重要な一歩となりました。
 1946年5月1日、10年ぶり、戦後はじめてとなるメーデーが皇居前広場で行なわれました。
 社・共両党などの連携の結果中央メーデー会場だけで50万人が結集し、戦前と違って官憲の弾圧もなく盛大に行われ、戦後メーデーの今日にいたる確かな一歩となりました。
 しかし中国などの社会主義体制への広がり、世界的な労働運動の高揚などのなかアメリカの対日占領政策も著しく反動化し、レッドパージなど労働組合運動への圧迫弾圧も行われました。
 そうした弾圧のなかで、1950年7月、日本労働組合総評議会 (総評)が結成されました。
 1952年の第23回メーデーは日本政府とGHQに使用を禁止された人民広場(皇居前広場)にデモ隊が向かうなかで、駆けつけた武装警官隊との衝突により死者まで生まれる「血のメーデー」となりました。
 このメーデー事件は、占領期終盤の幕切れを象徴するものでした。
3)1960年代、70年代のメーデー
 1960年代の日本は、経済の「高度成長」期でした。
アメリカのベトナム戦争にともなうベトナム特需も重なり「高度成長」は一層加速され、国民総生産(GNP)で西独を抜き資本主義国世界第二位という「経済大国」となりました。1964年の三菱三重工、1965年の日産・プリンスの合併があり、1970年の八幡製鉄・富士製鉄の合併(新日鉄)、そして1972年川崎航空機・川崎車両と川崎重工の合併という産業再編成が急速に進展しました。
 東名高速道路、東海道新幹線など世はマイカー、スピード時代に入りミニスカートが大流行し、"昭和元禄"とよばれました。
 「高度成長」も独占資本優先の路線である限り、労働者、国民の生活向上には限界がありました。春闘の本格的展開にもかかわらず労働分配率は年々下がり、技術革新と労務管理の強化のもと、仕事は単調になり"職場は砂漠"だとよばれました。
 1964年に、全日本労働総同盟(同盟)が結成されました。そして1960年代後半には、同盟の伸びは著しく、総評系民間労組の"地盤沈下"が目立ちました。メーデーも大衆的になり祭典色も強まり華やかさが増しましたが、その時々の情勢、運動の状況、世相を鋭く反映し展開されました。

 1970年代の幕開けは、日米安全保障条約の自動延長と沖縄返還問題で始まりました。
 1970年代前半は、1971年のドルショック、円切り下げ不況など「高度成長」期の破綻のきざしを見せながらも田中内閣の大規模な列島改造論にあおられ、投機ブーム、インフレが目立ちましたが、1973年秋の石油ショックに端を発して「高度成長」の破綻は誰の目にも明らかになりはじめました。労働運動は厳しい情勢に直面しはじめました。1970年代前半は大きく高揚し、賃上げ、生活諸要求で目立った成果を挙げ、1974年春闘はその点で最高潮に達しました。
 しかし1975年以降はJC(金属労協)集中決戦、一発回答の相場を中心に賃上げは抑えこまれ雇用などの諸要求も実現を大きく阻まれ、一転して苦戦を強いられるようになりました。
 1970年代のメーデーはとりわけその時々の情勢、運動状況、世相を映し出したなかで展開されていきました。
4)1980年代以降のメーデー
 1980年1月10日、日本社会党と公明党の政権合意が発表されました。
 1970年代までは右傾化と、よくいわれながらも1960年安保闘争のあと、社会党・共産党を含む様々なタイプの地域的統一戦線運動が発展し、人口の四割以上を占める人々が革新自治体で暮らすようになり「一日共闘」と呼ばれる統一行動も社・共両党と労働組合組織によってつくられ、国民の期待にこたえる政治体制が維持されてきました。
 その後、日本社会党が日本共産党との絶縁を表明し、公明党との連合政権構想をうちだしたのは、今日の保守支配体制の恒常化状況をつくりだす上できわめて重大な出来事でした。
 1980年代は総評が右傾化するなかでの労働運動でした。電電公社民営化(現NTT)に続き国鉄(現JR)の「分割・民営化」と右寄りの「労働戦線の統一」は一気に加速しました。
 1989年の第60回メーデーは、中央メーデーとしては初めての分裂メーデーとなりました。
 そして1990年代以降は、労働戦線の再編に伴い、連合(日本労働組合総連合会)系、全労連(全国労働組合総連合)系、全労協(全国労働組合連絡協議会)系による分裂集会が定着しました。
 連合系メーデーは、5月1日ではなく前倒して4月29日や土曜日に行うようになり、お祭り的要素が強くなってきました。

3.これからのメーデー
 労働者が、長時間労働、低賃金、不安定雇用で苦しむ中で、メーデーの起源でもある「8時間労働制」など「人間らしく生き、働き続けられる社会」をめざす闘いはまさに今日の課題です。さらにディーセントワーク(まともな、適切な=働きがいのある仕事)の実現などに取り組むことが重要となっています。
 今回の東日本大震災では福島第一原発に起こってはならない事故が発生しました。
 第82回メーデーは、「被災地支援」を掲げます。
 震災をのりこえ、人間らしく働き暮らせる社会をめざすためにも、今後「原子力・エネルギー政策の転換」、さらに日本の農業を守り、平和を守る「TPP参加反対、憲法・平和擁護」をめざすメーデーとして取り組んでいくことが必要です。
 第1回からのメーデーの歴史の中で示されてきたことは、労働者が「人間らしく生きる」という権利を求めて、その時代の権力にも抗して闘ってきた伝統です。
 労働時間の短縮は、今日人間らしく生き、人間的に成長する上で一番の基礎となる問題です。
 今こそメーデーの伝統を受け継いでいくことが求められています。

(11.05.01)