「残業代ゼロ」を斬る

1.「残業代ゼロ」を閣議で決定
 去る6月24日、政府は「経済財政運営と改革の基本方針2014」、俗に言う「骨太の方針」を閣議決定しました。
 中心となっているのは、法人税減税や公的年金資金の株式市場への投入など、大株主や外国人投資家を喜ばせる施策ばかりです。
 また労働者について、「働き方の改革」と称して、「残業代ゼロ」にする「新たな労働時間制度」や「裁量労働制の新たな枠組み」、「名ばかり正社員」を広げる「多様な正社員」の導入・普及などが盛り込まれました。
 本稿では「残業代ゼロ」に焦点を当て、それがどのような害悪をもたらすことになるのか、考えてみたいと思います。

2.財界・大企業の要求
 資本主義が始まって以来、経営者側の要求として労働者をいかに安く、いかに長く労働させるかがずっと追求されてきました。たとえわずかでも利益を増やす方法として、安易で有効だったからです。
 しかしこれをとことん拡大すると労働者の生活と健康が脅かされ、婦人・児童を含めて奴隷のような労働がはびこることになって、イギリスでは1847年に労働時間を10時間に規制する法律ができました。その後1919年には国連の専門機関としてILOが創設され、労働者に対する保護と権利を定めた条約ができました。その中で最も重要なのは労働時間を一日8時間と定めた1号条約です。
 日本は当初からILOに参加していましたが、第二次大戦で一時脱退したものの、戦後に復帰しています。
 但し、日本の経営側代表はILO条約に徹底して反対し、上記1号条約を含めたいくつかは批准ができていません。(注)
 ここには日本の大企業財界のあくなき利益追求の姿勢と、それに対する歴代政府の大企業優先の政策が如実に現れています。特に安倍内閣は大企業の利益を最優先に掲げ、徹底して労働者国民をいじめる政策を続けています。そのような政策のひとつの表れが「残業代ゼロ」なのです。
 総じて「骨太の方針」は、法人税減税や公的年金資金の株式市場への投入、労働法制の破壊など、国民を犠牲にしてひたすら大企業財界に奉仕するものになっています。

(注)ILO1号条約では無条件の8時間労働を定めていますが、日本の労働基準法は36条によって労使合意による時間延長という例外を認めているので批准できません。

3.「残業代ゼロ」は既に問題が出ている制度
 6月24日に政府が発表した「『日本再興戦略』改訂2014」の中には、「多様な正社員制度の普及・拡大やフレックスタイム制度の見直しに加えて、健康確保や仕事と生活の調和を図りつつ、時間ではなく成果で評価される働き方を希望する働き手のニーズに応える、新たな労働時間制度を創設することとした」と書いています。
 この「時間ではなく成果で評価される働き方」はこれまで財界大企業が要求してきた「仕事は時間でするものではない」とか、成果主義による賃金決定を政府として推進しようというものです。
 そもそもこの考え方は、アメリカで実施されている「ホワイトカラー・エグゼンプション」(=ホワイトカラー労働者を労働時間規制から除外するという意味)と同じものです。
 第1次安倍内閣でこの制度の導入を試みましたが、猛反対にあって頓挫したものを再び持ち出しているのです。
 ブルーカラー(現業職)の人達が働いて出来上がった生産物の量は明らかに労働時間に比例するので、彼らの賃金は時間当りあるいは出来高によって計算できますが、ホワイトカラーの「生産物」はどのように商品に反映されるのか、またその「価値」はどのように量るのかは極めてあいまいです。そのことを経営側は逆用して賃金を低く抑える材料として使っているのです。
 しかし、この「ホワイトカラー・エグゼンプション」を実施しているアメリカの現状について、経済アナリスト・森永卓郎氏は「報酬を決めるのは上司です。つまり、上司次第で残業時間や給料が変わるんです。これが日本でも起こる可能性があります」。「アメリカでは上司とのコミュニケーションが重要視されるため、なかには、上司を休日のホームパーティーに呼んで、家族ぐるみで接待に励む部下さえいる」(女性セブン2014年6月26日号)と語っています。
 日本では成果主義賃金を導入した企業の多くが、期待したような成果が上げられないとして手直しを余儀なくされています。
 既に問題が明らかになっているものを、政府が後押ししたらどうなるのか。過重労働による過労死の増大、ブラック企業の増大、などに政府がお墨付きを与えるだけの、労働者にとって極めて過酷な労働がまかり通るだけの役割しか果たしません。

4.「残業代ゼロ」の適用範囲を限定しても解決しない
 政府は「残業代ゼロ」の適用範囲を、年収1千万円以上、労働者個人の同意を条件にすると言っていますが、これが歯止めになるでしょうか?
 結論から言うと、どちらも何ら効果はありません。
 労働者派遣法を例にとれば、導入当初から何度も改悪され、適用拡大の一途をたどっています。法律に適用範囲が明記されていても、時の内閣で改正されたらおしまいです。実際、安倍首相は6月16日の衆議院決算行政監視委員会において民主党・山井議員の「年収1千万円は将来下がるのか」という質問に対して、「希望しない人には適用しない」と答えるだけで、年収制限が下がることを否定していません。
 経団連も、6月6日に榊原会長が記者会見で「少なくとも全労働者の10%程度は適用を受けられるような制度にすべきだ」と述べています。
 政府が言う1千万円以上の年収というと、国税庁の2012年の給与所得者調査ではその3.8%です。ということは経団連が少なくとも10%あるいはさらなる拡大を狙っていることは明らかです。
 一方、労働者個人の同意という点ですが、力関係から見てこれも保証にはなりえません。
 もし一個人が同意を拒否したとしても、企業は内部から希望者を補充する、あるいは失業者の中から募ることによって不自由はしません。しかし拒否した個人にとっては会社の成績査定の切り下げ、最悪解雇という恐怖がつきまといます。労働者にとっては死活問題だから、しぶしぶでも受け入れることを強制されます。
 資本主義が始まって以来、不況でなくても生産の合理化によって労働者が余剰になる傾向があります。よってバブルのごくわずかな時期を除いて求人数よりも求職者の方が多いことは根本的かつ慢性的現象なのです。このことを無視して「労働者個人の合意」といっても意味はありません。

5.会社の一方的成績査定と過重労働、健康・生活破壊
 最後に、政府の言う「時間ではなく成果で評価される働き方」ですが、評価は誰がどのように行うのでしょうか?
 残念ながらこれも雇う側の好き勝手になります。そもそも成績評価の客観的、絶対的基準は存在しません。例えば設計部門と製品のチェックを行う検査部門の「成果」の比較は不可能です。また検査部門の「成果」とは何でしょうか?不良品を沢山指摘することでしょうか?会社として不良品の発生を少なくしようとすることと矛盾するのではないのですか?
 経理部門とか工程管理部門における成績評価でも同様に基準はあいまいです。
 部門内部においても個人の間の比較で軋轢が生じます。それは特に共同作業において表面化し、自分の成績のことだけしか頭にない個人同士が反目したら仕事になりません。
 成果主義賃金を導入した企業ではまさにこの問題が発生し、結局手直しあるいは廃止を余儀なくされています。特に人事異動になると成績が上がるような売れ筋商品部門に希望者が殺到し、アフターサービス部門などは敬遠されるといういびつな現象が生じています。
 客観的基準がなければ会社側が査定の主導権をにぎることになります。従って恣意的にならざるを得ません。3.項に書いたアメリカの例が示すとおり、ギスギスした人間関係も生まれます。会社側はこのような問題にそ知らぬ顔をしつつ全体として査定を低く抑えて労務費を下げながら、個人を馬車馬のように働かせることもできます。「お前は能力が低い」と査定されれば、必死になって働く、しかし残業代はもらえない、こんなことがまかり通ったら大変な社会になります。
 いくら長時間働いても残業代は出ない、「成果」が達成できるまで帰宅できない、ということは過労死とその予備軍が大量に増えるし、一家団欒も維持できないという健康・生活破壊が蔓延するだけです。しかも現状の法律でも残業代未払いが後を絶たない、「ブラック企業」が社会的問題になっているのですから、「残業代ゼロ」が合法化されたら取り締まりどころか野放しになります。
 「骨太の方針」が実際に法案として国会に提出されるのはこれからですが、労働者・国民の運動によって提出の阻止、提案されても廃案にする必要があります。

 安倍内閣は、「残業代ゼロ」法案のみならず、消費税増税、集団的自衛権容認の閣議決定など、国政のあらゆる側面でアメリカ最優先、大企業財界最優先のために国民をとことんまで犠牲にすることを自らの使命として動いています。
 このような安倍内閣はもはや退陣しか国民の苦しみを取り除くすべはありません。

14.07.25)