大震災救援ボランティアに参加して
読者の方から大震災救援ボランティアに参加した感想をいただきましたので紹介します。
福島県を横長の長方形とすると、天気予報でも南部北部とは言わず、東西に西から会津、中通り、浜通りと言う区分けがしてあり、私達が行ったいわき市は、福島第一原発から30KMを含む浜通りの南に位置している。被災後4カ月余り経った現地では、町中は店舗も開けていて、外観上壊れた家屋は目立たなかったが、液状化で家が傾き、取り壊すしかない家もあると聞いた。車で見に連れて行ってもらった甚大な被害の海岸沿いは、波立つ海を前に静寂な無人地帯だった。その光景を見ながら、16年前の小さなボタ山を並べた様な被災地神戸での光景と思い比べていた。
海岸沿い地域の光景を家の基礎をとどめただけの更地が広がり、所々残骸のように柱と壁を部分的に残した空洞の1階部分に、形をとどめた二階屋がのっている家屋が、ポツンと残っている。湾になった地域を海面が壁の様に盛り上がり、この一帯を飲みこんでしまったなどと、悪夢以外の何物でもなかっただろう。この風景を見ていると、ここに町があったとは想像出来ない。
いわき市の海岸沿いの町は「夏、海風で涼しく、冬暖かい、津波など来ると思った事もない地域だ」そうで、「津波だから避難して」という放送も聞かなかった様に思うということを聞いた。ここでのボランティアの内容は、家の排水溝の津波で流れ込んだ砂出しや、家財の運搬等の作業と、2年という期限で雇用促進住宅に入居している被災者へのアンケート訪問活動だった。地元ボランティアの方と回った一日目と違い、二日目の私達だけでの訪問活動は、感慨の深いものとなった。
この住宅には、家屋が流された家族と福島第一原発からの30KM区域内から避難した家族が、5〜7人位で入居されている。いまは救援物資等で日々の生活が何とかなっているが、今後、津波と福島第一原発から30KM以内の元の地域に住居を再建できるのか、原発で子供の健康がどうなるのか、などの不安の声を様々聞かせてもらった。
「足の悪い夫と逃げようとした時、玄関口で津波に襲われた」お祖母さんの話には胸が詰まってしまった。一度は頭まで海水に漬かったが、その後玄関に流れついた太い木につかまり、5時間も寒さに震え、首まで海水に浸かりながらも、自分だけが救助されたという話を聞いて、言葉が出なかった。
また、身一つで障害を持った母親を抱え、間一髪で助かったという男性からは、「あなた方は被災地を見ていない、被災地を見てくると目の色が変わる。要望を聞く前にまず被災地を見て来なさい」と叱咤され、昼食前に浜まで見に行った。決して物見遊山で来た訳ではないが、ボランティアの心構えがまずかったのかと一寸消沈してしまった。津波による被災と原発からの避難など、援助金の受け取りの違いもあり、被災者の間にも温度差があった。
生活の見通しが立たず途方に暮れる日々、そして、その住宅から飛び降り自殺者が出ていることなど、せっかく助かった命が、今度は政治の貧困で命を絶つような現実があった。アンケート訪問活動はたいへん重い活動であった。
町では放射能への対応で、幼稚園では子供を屋外で遊ばないようにしていた。地元ボランティアさんからは、お孫さんの高校生が、原発の水蒸気爆発の後、「早く避難しないと死んでしまう、変な子供が産まれたらどうするの!」と言うので、慌てて福島市内に避難した、そうすると、避難先の方が線量が高く屋外へ出られなかった等の話を聞いた。お金持ちが多い孫さんの住んでいる地域では、国内に留まらずハワイやイングランドに避難している生徒もいると話されていた。
避難後の空き家からお金が盗まれたという話も聞いたが、それでも無償で人や町を復興させたいというボランティアは、人間性の原点だと思った。
ここで毎日ボランティア(自称ボランティア症候群)をされているSさんには本当に頭が下がった。「放射能まみれです…作業したあと『有難う』と言われると、もうやめられません」と快活に話されていた。Sさんが「倒れないか心配」と言っていた地元の区長さんは、携帯片手に被災の現場を次々と自転車で走り回っていた。震災・津浪・原発の緊急事態の中でも、地域の共産党の方々は「護民官」という原点で復興に向けて日々活動されている。彼らの私心のない献身的活動には、大いに感じ入るとともに、復興への明るい展望を見出すことができた。(神戸 Y)
いわき市の海岸沿いの町
(11.07.31)